藍峯舎

藍峯舎通信 web version

藍峯舎通信 web version

Vol.07 2015/11/28

 毎度、編集作業の遅延のお詫びで始めるのはお恥ずかしい限りですが、今回もまずは「幻想と怪奇」の悪戦苦闘ぶりのご紹介から。

 「幻想と怪奇」は藍峯舎にとって初めての試みとして、特装本と上製本の2種類を制作します。そのため、装幀・造本に倍の時間を要するのはまだ想定内でしたが、最大の難関となったのは、坂東壯一氏による新作銅版画の挿画を、印刷によっていかに忠実に再現するかという問題でした。坂東氏の作品に触れたことのある方ならご承知の通り、微細な線と肉眼では識別できないほどの点描によるグラデーションから生み出されるその精緻な幻想美の世界は、確かに容易に印刷で再現できるものではありません。そこで今回は二色刷の高精細印刷でチャレンジしたのですが、案の定、試行錯誤の連続でした。暗部の迫力を強調すればディテールが潰れがちとなり、ディテールを出そうとすると今度は黒味がぼやけて全体が迫力不足となって、刷り直しが繰り返されました。三度目の色校正でようやく坂東氏のOKが出るまでは、どうなることかと関係者一同が途方に暮れることもしばしば。ただそれだけ時間と手間をかけたことで、坂東氏が従来の亂步作品の挿画とは全く異なったアプローチで描き出した新たな美の境地を、可能な限り鮮烈な形でお届けできることになりました。その成果にどうぞご期待ください。

 一方、オリジナルの銅版画が綴じ込まれる特装本には、さらなる贅沢が用意されました。6葉の銅版画すべてに作家自身の手になる彩色が施されているのです。これは当初の想定にはなかったことですが、坂東氏が試みに一、二点に手を加えてみたところからにわかに話が発展し、結局、時間をかけて全点に精妙な手彩色が施されることになりました。ごく限られた部数だからこそ可能になったことですが、モノクロームの静謐な美の世界に僅かな色がひそやかに配されることで、原画とはまた異なった妖気が醸し出されてきます。こればかりは印刷では再現不能な、手彩色のオリジナル銅版画だけが垣間見せてくれる蠱惑的な世界というべきでしょう。本の性質上、少部数しか制作できず、多くの皆様にお届けできないのは心苦しい限りですが、「宝玉のような」とも形容される坂東氏の手彩色銅版画の美の粋を、総革装の「特装本」でご堪能いただければ幸いです。

 さて、挿画についてはこれくらいにして、今回の藍峯舎版「幻想と怪奇」のテキストについて一言。昭和12年(1937)に刊行された版画荘の「幻想と怪奇」では、亂步が選んだ収録作すべてにきめ細かな修正が加えられています。いずれ劣らぬ名作揃いの収録作にこれ以上手を加えるところなどなさそうにも思えますが、仔細に点検してみると、もちろん筋の改変などはありませんが、句読点の見直しに始まり、漢字の置き換え、語句の入れ替えから、新たな段落の書き足しまで、修正箇所がゾロゾロ。丹念にゲラを見直して名作に磨きをかけた痕跡が明らかで、亂步がこの自選短編集の出版にいかに熱を込めていたかがよく分かります。「火星の運河」などはクライマックスシーンに四段落にもわたる書き足しがあり、この短編の最長のバージョンとなっています。ただ不思議なことにそこまで熱を込めて収録作に手を入れたにもかかわらず、この版画荘バージョンの手直しは、その後の刊本にほとんど反映されておらず、この本でしか読めないのです。

 今回の藍峯舎版「幻想と怪奇」のテキストは、この版画荘の本文に準拠し、当時のままの旧字旧かな表記といたしました。ただ版画荘の本文にはひとつだけ問題があって、それは「蟲」と「人でなしの戀」に見られる伏字です。戦時体制への傾斜を深める時局への配慮からか、作中の刺激的な表現にはかなり神経を尖らせたようで、「蟲」については伏字だけではなく、最終幕の死体の描写などそっくり削除されてしまったところもあります。これが作者にとって本意でなかったことは明らかなので、これらの伏字や削除部分のみは、戦後の桃源社版全集をもとに各種刊本と照合して、可能な限り復元いたしました。それでも埋められなかった部分だけは、当時の出版状況を窺わせる資料でもあり、伏字のままで残しました。

 というわけで、伝説のプライベートプレス「版画荘」から生み出された乱歩の自選短編集「幻想と怪奇」の藍峯舎によるリメイク版は、間もなく予約開始となります。次回の藍峯舎通信では、メディアへの登場にはいたって腰の重い「孤高の版画家」坂東壯一氏が、乱歩について熱く語った貴重なインタビューをお届けします。どうぞお楽しみに。

過去の藍峯舎通信