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Vol.09 2016/8/31

 江戸川乱歩が70年の生涯で送り出した数多ある著書の中でも、随一の「稀書」いえば「奇譚」を措いて他にないでしょう。21歳の乱歩が本文のみならず、表紙図案からカットの絵まで手掛けたこの手製本については、これまで文学館などの乱歩関連の催事でしばしば展示されており、実物をご覧になった方も多いかもしれません。しかし、実際にこの本を手に取ってページを開いたことのある方——となると、ごく限られてしまうのではないでしょうか。そこでまずはこの世界に一冊しか存在しない「奇譚」に「触ってみた」レポートから。


 原本は現在、立教大学で保存されていますが、今回の藍峯舎による「奇譚」の単行本化にあたっては、その現状を確認することから作業が始まりました。貴重本の収蔵された書庫からうやうやしく運び出されてきた「奇譚」は白い布に丁寧にくるまれており、手を出すのも畏れ多いオーラが充溢。それでも怖々布を開いてゆくと、姿を現した原本はさすがに制作から100年を経ているだけに、かなり劣化が進んでいます。写真でもお分かりの通り表紙の絵の色はほとんど褪せて所々剥げており、また背表紙が完全に剥落しているため本としての形を保つことが難しく、寝かせておかなければバラバラになってしまいそうな状態でした。それでも中のページは変色こそしているものの比較的きれいで、欠落はいっさいありません。一箇所だけ煙草によるものらしい焦げ跡があるものの、あとは乱歩の手書きの文字もカットの絵も、さらには後から加えられたらしい様々な書き込みにもダメージは見られませんでした。

 そこで立教大学から原本の借り出しの許可をいただき、さっそくラボにおいて編集作業の出発点となるデジタル化を進めることになりましたが、極め付きの「稀書」だけに、その作業期間中は関係者一同、非常な緊張状態を強いられることになりました。最新技術による高精細デジタル撮影の現場での取り扱いはもちろんのこと、運搬や保管の過程においても万一事故でもあったら、取り返しのつかぬ事態となってしまうからです。立教大学に原本を無事返却するまでは、あれこれ心配の種は尽きず戦々恐々の日々が続きましたが、ともあれそんな苦闘の結果、「奇譚」原本の全240頁は、表紙から裏表紙まで1頁の欠落もなく、高精細画像データとして永久保存されることになりました。

 その「奇譚」全ページの画像は今回の藍峯舎版「奇譚」に付属するCD-ROMに収録されますが、CDにはさらに原文のままの片仮名表記による翻刻文が添えられます。乱歩研究家・中相作氏による翻刻は、いったん書かれて消された部分まで可能な限り復元し、欄外への書き込みや、余白のページへの悪戯書きめいた文言まで忠実に再現した完全版。明らかな誤記や英文のスペルミスも、あえてそのままの形で表記しています。また裏表紙の見返しには、乱歩が弟たちと経営していた古書店「三人書房」の店頭に商品として並べられた際のものらしき「番外10.00」(10円!)という値札も貼られており、この画像もしっかり収録されていますのでお見逃しなく。さらに原本を徹底的に読み込みたいという方のために、パソコンの画面上で連動する便利なポインター(「ほたる」ポインタ)によって、画面左の原本と画面右に配される翻刻文を、文字単位で比較対照できるようになっております。

 というわけで今回は、21歳の乱歩の初々しい肉声が、手書きの文字やカットからダイレクトに伝わってくるようなCD-ROM版「奇譚」のご紹介が先行してしまいましたが、原本のデジタル画像を検証のうえ中氏が新たに厳密な校訂を施した、肝心の本体である平仮名変換版「奇譚」の中身の「濃さ」については、次回の藍峯舎通信でじっくりご紹介いたします。どうぞお楽しみに。

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